GブレイカーのSpecNote

日々の雑記とメモ。スペックがわかるほど量を書いてませんがね。

今日のテーマ「知性とは」

 なんと、もう一週間たっていたのか。先週は頭ん中がグチャグチャしてて、結構弱っていた。今週はやっと落ち着きを取り戻してきたのだが……落ち着きすぎたな。がんばろう。
 
  
 考えることも、出る答えもいつも同じだ。
 考えること自体がもう子供の頃からの癖になっていて思考から逃げられない。うんざりするし、もうとっくに飽きたけどやめられない。何度も何度もやめようと思って、やっぱりやってしまう。その度に怒って、悲しんで落ち込んで、うんざりして、やる気出して、疲れて、また最初に戻る。
 こんなことを繰り返して何の意味がある?といつも思うけれど、これに関してもいつも出る答えは同じで。
 
 だから最近よく思うのは「知性に価値はあるのか」だ。考えてもしょうがない、仕方ない、などと答えを出すならそんな命題なんてそもそも持たせるな・気付かせるなということだ。教育者や政治家や学者が、あれだけ金集めてガン首揃えてその程度の事すら防げないのかと思う。
 
 そして同時に――すぐに――「仕方ない」などというどうしようもない答えを持ちだして他人を納得させようとする人間など邪魔以外の何ものでもないからくたばってしまえ!とすら反意を浮かべる。
 僕はこの「仕方ない」という言葉が大っ嫌いだ。あまりにも人を馬鹿にしていると思うからだ。解決したくて必死に考えてあがいているのに、たった五文字でその苦悩を片づけようとする行為が、僕には悪逆非道の太刀筋に見える。
 即ち知性には価値があると僕は信じているのだ。
 
 そして、こんなことを書いた瞬間に思い出してしまうのが、世界独裁者ランキングTOP5に入るとされる、カンボジアの独裁者「ポル・ポト」の存在だ。
 まぁ歴史にそんなに詳しくないが、彼はベトナム戦争に巻き込まれて疲弊した自国の現状は、諸外国に汚染されたことが原因と考えたらしく、大きく繁栄した帝国時代に戻すため自国から生まれなかったが存在するもの……つまり近代に至るまでに持ちこまれた様々な知性の廃棄を始めた。知性を持つ人間そのものの廃棄――虐殺だ。
 結果、国外に留学している医者や学者、技術者の卵たちを含め、カンボジアを復興させるためなどと虚言を吐き帰還させてまで徹底的に続行した。自分の行いを悪いことだと知っていた彼は、これを見事に隠蔽していた。周囲の国家も、まさか静かに虐殺・虐待が行われているなどと思いもしなかったそうだ。ベトナム戦争に巻き込まれたカンボジアに同情すらしていただろう。
(……うろ覚えだけどこんな感じだったと思う。間違ってたらごめんね。まぁググってもいいんだけど、正確さを追いかけてるとそれだけで日が暮れるので今回はこのへんで)
 
 話を戻す。極論を持ちだしてもまさに「仕方ない」のだが、物事を単純化するには極論するのが一番わかりやすい。いやまぁ「知性に価値があるのか」なんてのが既に極論なのだが、極論というツールの是非うんぬんなどは、話が逸れまくりそうなので、それはこの場ではひとまず置いておく。
 
 さて、これの(ポル・ポトの行いの)一体どこが正しいというのか。共産主義と資本主義の戦いをまざまざと見せつけられて無為に人が殺され続ける現実を味わったであろうポル・ポト。その彼が夢見た時代逆行の果てに辿り着いた答え(あるいは手段)は命を奪う側に回ることだった。
 それが彼の持つ「正しさ」であり「仕方ない」だったのだ。
 
 ……もっとも、主義に関係なく独裁者だろうが大統領だろうが、結局は組織や全体の総意などという漠然としたものにすがりついて責任の所在を曖昧にしてしまうものだ。えてしてそういった漠然とした“何か”だけで動いてしまう力を生んでしまう。それこそ企業単位どころか学級レベルですら存在する話なのだ。
 なぜそんなものが生まれしまうのかというと、僕は「時代に対応するためにわざと用意された安全マージン、解釈の自由を有した余裕のあるルール」が原因にあると考えるのだが――これはこれでメリットがあるため簡単には否定できないのだ。
 弁護士もたまに口にするがそれが法規といったシステムの限界なのだという。多種多様な人間が集団で暮らすためにはリスクを排除しきれないのだ、と。ルールでがんじがらめになっている方が辛いのだということだ。
 
 そのように僕は感じるからこそ、「仕方ない」などということが大っ嫌いで、でも本当にどうしようもないことがあるのも事実だから、僕もやはり「仕方ない」などと言ってしまうのだ。この文章をここまで書いても、既に極論だの例だのを取り扱うと「仕方ない」を使わないと話が進まなくなる。考えてもどうしようもない。解決するためには荷が勝ちすぎているのだ。
 
 この矛盾が解決しようのない思考のループを生んでいる。そして僕は怒りのあまり自分に対してすら「くそったれ!」などと思うのである。解決できないことにイラつく。自己否定の完成だ。
 「自己否定」などというネガティブな単語を書いてるだけで、もううんざりしてきて腹が立つ。だから「こんなことを考えて何になる?」だ。
 ループはひたすら続いていく。考えても解決せず、考えなくても解決せず、放置していても解決しない。八方塞がりとはこのことだ。そもそも解決など無いのではないか? どっかの数学の公式に「現状答えは存在しない」があるように、これは解決しないのではないか。そんな答えすら頭によぎる。
 
 例えばSF的な解決方法ならあり得るのだろうか。国や集団というあり方がルールと付随する問題を生むならば、そんなものを放棄して徹底的に個人主義に走ればよい。誰とも関わらず、一国一城の主を体現してしまえば、こんな悩みからは解放される。国や集団が、発展のために邪魔なのだ。孤独と引き換えに得る自由にこそ夢を感じられるのだ。
 だがそれこそまさに原始時代への逆行であるとも言える。好き勝手やって好き勝手に死んでいた時代だ。実に動物的で正しさすら錯覚する。
 知性を大事にするからこそ知性を放棄してしまうなど、SFの話だ。孤独の夢など現代日本が抱える閉塞感そのものではないかと感じさえする。
 こんなモンの一体どこに救いや安心や幸福があるのだ。くそったれの畜生論理だ。怒りと諦観に挟まれた地獄の経典だ。戒律(ルール)にすらなれない悪魔の思想など俺が直々に破り捨ててくれるわと思う。滅べ!
 このループは、怒りなのだ。恨みでも憎しみでもなく、純粋な怒りそのものだ。
 怒りこそが自分の思考の根源なのだ。僕は、怒りを原動力とする人間なのだ。みんなもっと怒れば良い。「怒りはエネルギーになる」ってターミネーターも言ってるし。
 
 ……怒りが僕に搭載されたエンジンを回すエネルギーだというのは、大昔からわかっていたことだ。人に指摘されたこともある。
 それが邪悪に感じられて嫌だったから正しい力を求めたが、結局ここに戻ってくる。最近よく感じさせられるのは、大きく回ってまた元に戻るだ。いくら手段を変えても、また同じ結論へと戻ってくる。
 仕方のない、くそったれの、どうしようもないループだ。
 
 
 そーいえば、仕事中に腹が立つと、僕は周囲にお客様がいるかもしれない状況でも机や壁を蹴りまくってた時期がある。同僚ドン引きである。
 
(いや変な客はスルーした方が早いからそれではない。僕がキレてたのは大体内部問題に対してだ。変な客にイラッとしたことはあるが相手にする方が面倒なので我慢だ。っていうか我慢しなくても相手が何を考えてるのか大体わかるから怒る必要もない。
 蹴りを見つかったことは一度も無い、多分。同僚も気付いていたかどうかは不明だが…ベテランは気付いていたかもしれない)
 
 怒りに身を任せた瞬間だ。愚痴や八つ当たりはしたくないし、冷静に客人に向き合えそうにないから、そーでもしないと我慢できなかったのだ。自分の足を痛めることで頭に昇った血を引きずり下ろす必要があった。実に勤務態度の悪い人間と言えよう。
 だが、こんな文章を書いた今にして思えば、あの瞬間こそ心体一致していたように思う。
 生きていることを実感できた瞬間だったのかもしれない。自分を知るヒントはやはり振り返ると見つかるものなのだなぁ。知性だけでは人は満足しない。死を間近に感じられる時代なら、生きるために感情的になることも必要だ。ポル・ポトもそう思ったのかもしれない。だからといって虐殺は許されることではないが…。
 答えなんて無いので、「まぁ最後はバランスです」なんてクソみたいなオチだがここでこの話は終わる。
 
 たまったストレスは文章にして吐き出すのが一番良い。これも昔からよくやっていたことだった。